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夜鷹の床(32)

[519] うなぎ 2012-02-08投稿
 町は晴天。運河沿いの通りを河岸町に差し掛かった辺りで左に折れ、商家の並ぶ町屋へと入る。その中に小ぢんまりと佇む一軒の問屋の前で与兵衛は立ち止まり、狭い入り口の暖簾を潜った。
「これはこれは与兵衛様。いつもご苦労様です」
「おお若狭屋。実は色々と立て込んでてな、これしか仕上げられなんだわ」
「充分でございますよ」
 与兵衛は抱えていた傘の束を、店の間から土間に降りてきた旦那に手渡した。黒光りする板の間が静けさを際立たせている。このよく磨かれた床も、暇である事を示しているようにも思える。
「与兵衛様の貼られた傘は長持ちすると評判でしてね。ま、長持ちされてはこちらとしても商売上がったりなんですがね。ははは」
「俺は手抜きはせんからな」
 土間に腰を下ろすと丁稚が茶を運んで来た。旦那は傘を抱えて通り土間の奥へと消えて行く。
「どうだ太一。少しは奉公にも慣れたか」
「へい」
 太一は昨年、近くの農家からこの傘問屋に奉公したばかりの少年である。歳はまだ十を数えてばかり。
「毎日辛くはないか」
「へい、おかげさまで旦那さまが良くしてくれますので」
 太一はにこやかに笑みを浮べて見せた。しかしそれも束の間、眉毛が八の字になる。
「ただ……」
「どうした」
「久間さまの所の紫乃姉さまが、いなくなってしまって」
「ほう……お前、紫乃の事を知っておったか」
「姉さまにはよく遊んでもらってたんです」
 紫乃が今どうなっているのか、とてもこの少年には話せない。
「お待たせしました与兵衛様」
 通り土間の奥から若狭屋が骨組みだけとなった傘の束を抱えてやって来た。
「ああ若狭屋。その……実はな、俺は暫く傘を貼れぬやも知れん」
「これはまた、なぜです」
「仕官する事に決めたんだ」
 訝しんでいた若狭屋は顔を綻ばせる。
「ほっ、これはめでたい」
「いや、まだはっきりと決まった訳ではないがな。ともあれ、また暇になったら貼らせて貰いに来るさ」
 与兵衛は腰を上げると太一の頭に手を乗せた。
「しっかり頑張るんだぞ」
「へい」
 殷懃に頭を下げる若狭屋に会釈し暖簾を潜れば、賑わいを見せる人々の往来。その中で、眩しげに目を細める彼に声を掛ける者があった。

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