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夜鷹の床(39)

[607] うなぎ 2012-02-10投稿
「あたしみたいな夜鷹を嫁になんて……悪い冗談やめとくれよ」
「…………何度も言わせるな」
「だって、あたしとあんたじゃ身分が……」
 与兵衛はもう、何も答えなくなってしまった。確かに身分差としては結ばれる事の無い間柄ではあった。しかし与兵衛の家は下士の家で兄が家督を継ぎ、与兵衛自身は浪人と変わらぬような暮らし。祝言こそは遂げられなくとも、夫婦として暮らす事は出来よう。
 お理津はタライから上がり、足も拭かずに与兵衛の背中へと抱きつく。そして、その無言の背中で泣いた。
 真上に昇った月の光は柔らかく降り注ぐ。濡れ縁に落とされた影は、中庭に伸びる南天の細枝。ゆっくりと忍び寄るように、紫乃の足の小指に触れた。
 部屋の中では二人の寝息が漂う。与兵衛の決意は他人事とは思えないくらいに嬉しくて、ついもらい泣きしてしまった紫乃であった。しかし、彼女一人が寝損なってしまった時、ふと、孤独感に襲われた。自分は邪魔者なのではないか、とすら思ってしまうほどに。
 お理津は自分を守ると言ってくれたし、与兵衛も身請け人になってくれた。優しさは痛いくらいに感じる。が、同時に入り込めない場所も垣間見てしまった。体の交わりではお理津とも、そして与兵衛とも繋がり合ったと言うのに、この寂しさは何だろう。
 細枝の影は、いつしか紫乃の足元を被い尽くしていた。

 重い雲が垂れ込め、降るか降らないか釈然としない空の下、旅支度もそこそこに旅装束の与兵衛。別れを惜しむ暇(いとま)も無し。
「本当に、行っちまうんだね」
「ああ。達者で暮らせ」
 遠巻きで陰口を叩く長屋の女房たちにも笑顔を向ける与兵衛。
「暫くお役目で居なくなりますが、その間こいつらに留守を任せます。宜しく頼みます」
 女房たちは愛想笑いで返すと、手をひらひらさせながら各々の戸口へと消えて行った。
「待ってるよ」
「ああ」
 お理津の後ろで紫乃は何も言わずに深々と頭を下げる。
「では、行って来る」
 お理津は昨夜の彼の言葉を胸に待つ事に決めた。そして長屋の門を出て見えなくなるまで、その姿を見送った。


※続く

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