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夜鷹の床(2)

[734] うなぎ 2012-02-03投稿
「こりゃ、ひと雨来そうだな」
「そこの傘持ってきな」
「おう、そいつぁ有難てぇや。お前様の傘は滅多に破れねぇって巷でも評判だからな」
 先ほどまでとはうって変わって湿った風が、蛙の声を運んで来る。与兵衛も思わず障子を開け、身を乗り出し天を仰ぎ見た。
 ポツリ。
 と、鼻先を濡らす一滴の雨粒。しかしながら一向に降るのか降らないのか、はっきりとしない曇り空。

 暫くして、猫の額ほどの庭に植えられた紫陽花の葉を、雨が叩く音。蛙の声が呼び寄せたか、夕暮れ近くになるにつれ強くなる雨脚。

 雨脚は強くなるばかり。あまりの飛沫で、運河沿いの通りにはうっすらと靄のような膜が広がる。
「さっきまで晴れてたのに、なんだよ」
 独りごちも瞬く間に掻き消された。こんな時に与兵衛さんが通り掛かれば。などと都合の良い事を考えている、お理津。
 運河に掛かる橋の袂に、ぼんやりと傘をさす人影が浮かび上がった。お理津は眉間に皺を寄せながら滝のような雨脚を透かし見る。
「久間の旦那じゃぁないか」
「む? その声はお理津か?」
 薄暗くなり始めた軒下からいきなり声を掛けられ、ぎょっとした顔の久間。辺りをキョロキョロと伺う。
「あはは、誰も居やしないよう」
「こんな明るい内から声掛けんじゃねぇや!」
 とは言え夕立ち。町屋は影を濃くし始めている。
「あら。廻り方同心が夜鷹に声掛けられちゃ、バツが悪いってかい?」
「おうさ、誰かに見られでもしたらオメエ」
「ご挨拶だねえ。そんな言い草されたんじゃ、もう旦那の相手なんかしてやるもんか」
「それは、こまる」
 久間は依然、辺りを気にし続けている。
「ねぇ旦那ぁ。与兵衛さんの家まで、入れてっておくれな」
 お理津は見上げながら、傘を叩く雨音に負けぬほどの声で言った。
「それも、こまる。いいか、くれぐれも与兵衛には何も話すんじゃねえぞ」
「いいじゃないか。ただの買った売ったの関係なんだからさぁ」
「気まずいってんだよ」
 久間はもはや馴染みと呼べるほど、お理津と通じていた。彼女が宿り木のようにしている与兵衛とは旧知の仲。だけに、なんだか申し訳ないような。それでも……。
「今夜、酒の席があってな。酌なんぞ頼みてぇんだが。戌の刻、弁天橋の袂で待っている」
「はいはい」
 言い残し、久間は背を向けると左手を挙げ、そのまま雨の中へと消えて行った。

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