「おぅっ……!」
大きな水音と飛沫。
「おぶっ……ひっ……助け……」
足掻くも、昼間の雨で水かさの増した運河と、酒の回った体。紫乃は叫ぶでも無く、ただ無表情にその光景を見つめていた。足元では落ちた提灯に火が付いて燃える。やがて、水面は穏やかに波を消した。
蔵の壁は漆黒の板張りで、夜ともなるとまさに闇で塗りつぶされている。なのでお理津は、道端に膝を抱えて座る少女の存在になど全く気づかず、通り過ぎようとしていた。
「ひゃぁっ!」
物音に驚き飛び上がる。身構えながら目を凝らしてみた。
「あんた……紫乃ちゃんかい?」
影は立ち上がり、お理津の方へと近づいてきた。
「どうしたんだい、こんな所でさ。美濃屋の旦那送って来たんだろ? 提灯はどうしたのさ」
紫乃は黙って柳の木の根元を指差した。そこには燃え尽きた提灯の残骸。
「落としちまったのかい、しょうがないねぇ。とにかくこんな真夜中だ。辻斬りだの野犬だのがうろついてるかも知れないんだから、早いとこ帰んな」
それだけ言うとお理津は再び歩き出した。しかし。
「うん? 何でついて来るんだよ。とっととお帰り」
面倒臭そうに手を払う。そのまま無視してまた歩き始め、弁天橋の袂。お理津は疲れ果てていた。いつになく、激しい一夜であった。ため息をついて立ち止まる。
「ちょっと! どこまでついて来るんだい。久間様の屋敷は逆だろ!」
相変わらず無言で、ただ真っ直ぐお理津の事を見詰めている。
走った。水溜りも構わず飛沫を上げて。
「なんでついて来るのさあ!」
橋を渡り神社の境内。息を切らすお理津と、同じように肩で息をする紫乃。彼女は観念して能楽堂の低い階段に腰を下ろした。すると紫乃も隣にちょこんと腰を下ろす。
「そんなに……はぁ、帰りたく……はぁ、ないのかい?」
「……うん」
息を整えて話しかけると、やっと紫乃も口を開いた。
「だってあんた、どーすんだい。行く当てあんのかい?」
首を横に振る。
「そりゃ嫌だったかも知れないけどさ。でもあんた、久間の旦那に食わせて貰ってんだろ?」
どうしたものか。と、お理津は頭を抱える。与兵衛さんに相談してみるしか無いか、と。どのみち自分にはどうする事もできない。それだけは確かである。