与兵衛の家は真夜中にも関わらず閂が外されていた。お理津にとっての帰る場所がここにはあるのだ。家の中では与兵衛が寝息を立てている。彼を起こさぬよう、お理津と紫乃はそっと土間に忍び込むが、暗すぎて足元が見えない。どうにか框を見つけて上がろうと思った時、何かにつまずきそうになる。見るとそれは、皿に乗せられた一個の握り飯であった。
「与兵衛さん……」
ふと、涙が込み上げて来るのを抑え、お理津はその巨大で不恰好な握り飯を二つに割った。そして紫乃と二人、框に腰を掛けて握り飯にかぶり付く。二人とも腹が減っていた。
「ん……帰ったのか?」
広げられた傘の向こうでごそごそと物音。
「あっ、ごめん、起こしちまったかい?」
「いや、構わんさ」
「握り飯……その、ありがとう。旨かったよ」
「その辺の傘、適当に畳んで場所作っていいぞ。もう乾いてるから」
もそもそと布団から這いでた与兵衛は雨戸を開けた。途端、部屋に流れ込んで来た月明かり。
「いい月が出てるなぁ」
雲は捌けて月夜。
「あのさ、ひとつ頼みがあるんだけどさ」
「なんだ?」
「その……この娘を、ちょっと置いてやってはくれないかい?」
与兵衛は闇を透かして框の方に目を凝らす。
「おめえ……久間んとこの奉公人じゃねえか。どうしたんだ?」
「なんかね、もう帰りたくないとか言ってさ、よっぽど酷い事されてたんじゃないのかい?」
「ふむ。久間はそんな事するような奴にも思えぬが」
「いや、その……あたしも良くは知らないけどさ、とにかく嫌で逃げ出して来ちまったんだよ。な? いいだろ? あたしももっと稼いで来れるように頑張るからさぁ」
「そりゃ、まぁ別に構わんけどな」
「本当かい!? これだから与兵衛さん好きだよう」
「こ、こら」
布団に潜り込むお理津。彼の胸に顔を埋めて強く抱きついた。暗い部屋でお理津の含み笑いだけが響く。
「紫乃ちゃんも、こっちおいで」
「え?」
ばさりと布団を捲り上げ、身を起こすお理津は雨戸を閉めた。そして真っ暗闇になった中で手を差し伸べる。紫乃は誘われるまま、お理津と与兵衛の間に体を横たえた。大きめの布団だが身を寄せ合わさなければ狭い。身を硬くする。だがそんな紫乃の緊張と鼓動の高鳴りをよそに、与兵衛とお理津は寝息を立て始めるのであった。