「おう、与兵衛じゃねえか。何こんな所で油売ってんだ」
そこには裃を穿き、身なりを調えた久間の姿が。
「お前か。それはこちらの台詞だ」
「俺は奉行所に所用があったんだよ。それより与兵衛、お前に良い話を持って来たぜ」
「まさか縁談じゃなかろうな」
「違うわい。ま、歩こう」
大手門へと続く寺町は、打って変わって木魚の音さえも聞こえる静けさ。香の匂いが涼しげな風に運ばれて来る。良い話と言った割に、久間は神妙な面持ちであった。
「で、なんだ。良い話と言うのは」
「ああ。実はな与兵衛。村落取締出役が馬廻りを探しててな」
「なっ!」
与兵衛は足を止めた。村落取締出役とは領内の村落を回り、年貢の不正や抜け荷が無いかなどを監視する役人である。足軽格の手代で、江戸における八州廻りのような物であった。
「三十石だ。申し分無いだろ」
「まぁ……そうだが」
「旅役人の付き人ったって別に年がら年中城下を離れてる訳じゃねえ。長屋を引き払う事もねえしよ」
久間は何も言わないが、与兵衛の狼狽えなど承知の上であった。しかしながら背中で与兵衛の反応を伺うばかりである。
「まあ俺の屋敷に寄ってけ。茶ぐらいは出すからよ」
三十石もあれば女二人を養うぐらいどうにかなる。しかし留守をするとなると、彼女たちの拠り所をどうするか。別に長屋を借りて住まわせるほどのゆとりまでは無い。
久間の屋敷は静かであった。喜作も出払っているようで、広い屋敷には誰も居ない。
「どうも人が居ねえと落ち着かなくてな」
「無駄に広いからだ。嫁でも貰え」
「そうだな。ひとの心配ばかりしている場合でもねえか」
「全く、広くて困るとは何とも贅沢な悩みよ」
「お前んとこみてえな長屋暮らしの方が、俺の性には合ってんのかも知れねえ」
湯呑みを啜る与兵衛。昼下がりの庭は音も無く、和らいだ陽射しが眠気を誘う。
「お前、囲ってる夜鷹の事が気掛かりなんだろう?」
突然そう切り出されて、思わず茶を吹きそうになる与兵衛。
「べ、別に囲ってる訳ではない」
「そのまま住まわせておけばいいさ。俸禄を受けるまでの家賃は俺が立て替えてやってもいい」
与兵衛は考え込み、暫くしてから口を開いた。
「すまぬ。世話ばかり掛けてしまう」