「聞けばお前が紫乃のやつを与兵衛の所に連れて行ったそうじゃねえか。俺はな、お前に免じて紫乃のやつを譲ってやったんだぜ」
お理津は蕎麦も喉を通らず、そして何も言えなくなった。
長屋に帰れば、障子から漏れる薄明かりと焼き魚の匂いがお理津を迎えた。ちょうど与兵衛と紫乃が晩飯を終えたところだったようである。
「おお、帰ったか。飯炊いてあるぞ」
「あたしは表で客にご馳走になって来たからいいよ」
「なんだ、そうだったか」
「ありがとう。ご飯は握り飯にでもしとくね」
辺りはすっかり宵闇。菜種油の火も届かない土間の暗がりで、お理津は一人タライを用意して足を洗う。
「お理津よ。今日な、仕官する先が決まったんだ」
「へえ。良かったじゃないか」
何の抑揚も無く答える。お理津と久間の関係は与兵衛に対して秘密であり、もう既に話を聞いたとは言えない。
「ただな、旅役人の付き人でな。しばらくここを留守にしなければならなくなった」
「……そうかい」
「明日、出立する」
「なっ! そんなまた、急な話じゃないか! 明日って……」
まさか、今夜限りだったとは思ってもみなかった。
「廻り方同心の久間なんだが、紫乃について話を着けて来たんだ。俺が身請けする事にした。留守中、この長屋の家賃も立て替えてくれる。だからお前は、紫乃と二人でこの部屋に住んでいろ」
「なんで……なんで一人でみんな勝手に決めちまうんだよう……」
「……お前たちのためだ」
「誰が、いつそんな事頼んださ!」
「お、お理津……」
「あたしは……あんたと一緒にいたいだけなのにさ」
確かに貧しかった。貧しくとも、帰る場所が有った。それはこの部屋でなく、与兵衛の隣。
「暫くの辛抱だ、お理津。稼ぎが増えればお前を養う事だって出来る。そうすれば、夜鷹からも足を洗える。そうすれば……お前を嫁にする事だって……」
「なっ……」
水を打ったような静けさ。紫乃は部屋の隅で両手を口に宛て、息を呑む。
「何を言い出すんだい……いきなり」
「……」
与兵衛は黙ってしまう。いや、何も言えなくなってしまうのだ。ただ背を向けて、ぴくりとも動かない。
「馬鹿な事言うんじゃないよ……なんであたしなんかを」
声が、震えていた。だが、何か喋らなくては、きっと涙が止まらなくなってしまう。