「行っちまったねえ」
中へと戻り、しんと静まり返った部屋を眺めて溜め息。傘貼りの道具は押し入れに片付けられて、いつになく広々としている。
「この先、どうなっちゃうの?」
お理津は紫乃の手を強く握った。
「言ったろ。あんたは私が守るって。何も心配する事なんて、ないさ」
だが、その声は震えていた。暫くして、ぽつり、ぽつりと、庭の葉を叩く音。
お理津はその日から、毎日のように紫乃と肌を合わせるようになった。与兵衛の居ない寂しさを埋め合わせるかの如く。ただ、満たされないのは紫乃も同じ。止めどなく溢れ続ける欲求と、決して消える事の無い孤独。
「私、たぶん病なんです」
「具合でも悪いのかい?」
「いつもあそこが疼いたまんまで、こうしないと駄目なんです」
弄り合う。堕落か。それとも本当に壊れているのか。お理津には分からない。もうどれだけ抱き合っていただろうか。外はすっかり暮れていた。
突然戸口を叩く音に、二人は飛び跳ねるように驚く。与兵衛が旅立ってから、初めて叩かれた戸板。
「ど、どちら様?」
「俺だ。紀之介だ」
「なんだ、旦那かい」
久間である。お理津は襟元を正して、戸口の閂を外した。
「なんだとはご挨拶じゃねえか」
行灯に浮かび上がる久間の顔。その奥にもう一人、見馴れぬ男が立っていた。
「部屋を使わせて貰うぞ。大事なお客様だ」
行灯の火を消すと、もう片方に携えていた大徳利をお理津に手渡した。
男はどうやら侍らしい。差し出された大小の拵(こしら)えを、すかさず紫乃が受け取る。武家に奉公していただげあってか、その所作は自然である。
「この方はな、町方与力の峰岸様だ」
実直そうな眉の下に窪んだ目許。暗く光るその目は、お理津の爪先から顔までを舐め回す。
「ほう、なかなかの器量良しではないか」
一文字に引き締まった口の端を微かに吊り上げて言った。深々と頭を下げるお理津。
「そんな滅相もありません」
紫乃は押し入れから客人用の蝋燭を出して来て火を灯す。そんな小気味良く動く彼女に、久間が声を掛けた。
「紫乃。久しぶりだな」
「へ、へえっ!」
弾かれるように向き直って膝を正し、土下座。
「心配すんな。何も咎めたりはしねえ」
「へえ!」