これは私の考えなのですが、もしかしたなら作品を造る、とは自身にその可能性を背負わせる、若しくは見せる事になるのかも知れませんが考えてみて下さい、妻に滅茶苦茶に愛される自分、夫に大切に思われる自分、凄く素敵じゃ無いですか。
そんな風になりたい、とか、あったら面白そうだと思う事が自分に起きるのだとしたら、堪りませんよね?
勿論、幾ら可能性だけを持っていても、努力しなければ駄目です(あんまり良い例では有りませんが、ホー〇レスの方々を、皆さんは見掛けますよね?あれだって”努力しない”と言う努力をした結果ですよ。本人達はそんな積もりは無かったのかも知れないけれど、抗いもせずにただ流されるだけ流される、と言う行動を繰り返した結果、なのかも知れません。それに人間は余程意思が強くてしっかりした人でなければ、知らぬ間に変な勢いが付いたり流されたりしてしまうモノですが、そう言う人達ならば平然と逆風にも立ち向かって行けるでしょうし、或いは土壇場で”負けるか!!”と気付いて奮起し、跳ね返せるのかも知れません)。
それに私達創造主は物語に対してキチンとした形で終わらせる、と言う責任を先ず持たなければなりませんが此処は感じるままに突っ走るべき、と言う箇所を考え過ぎな判断でやってしまったり、反対にどうしても押さえなければならない、導くべき場面を本人任せ(と言う名の責任放棄)にしてしまっている様な気もします。
話が長くなりましたが、もっと心血を注ぐ(もっとグチョグチョで濃厚なラブシーンや描写があっても良いと思います)、と言うか真心と欲望を注いで素晴らしい純愛を書いて頂けたら、等と思っている次第です。
敬具