正夫は由紀子の目を見て語り出した。
「由紀子…オレが入社した時…先輩から聞いたっていって話した…うちの会社の噂…覚えてるか?」
「え?噂…?どんなのだっけ…?」
「ほら…人事部長…変態で…奥さんが気に入られないと…うまく昇進できないって…あの時はまだ結婚もしてなくてさ…笑い話で話したことがあっただろ?」
「ああ…あったわね。そんな話…」
当時は二人とも同時に社会人となり、お互い自分の会社について話すことも少なくなかった。
「でも…噂でしょ?そんな事…あるわけないじゃない…」
「ああ…でも…今日な…人事部長…うちに来るって言うんだよ」
「きょ、今日…?来るの…」
はやして噂は本当なのか…?不意をつかれた由紀子は急に不安になった。
「ねえ…変態って…どんな感じの人なの…?人事部長さんって…」
「うん…見かけはただの中年オヤジなんだけど…SM好きらしい…」
「S…M…」
「ああ…女性を恥辱的に苛めるのが好きらしい…」
由紀子は一生自分に縁のない行為だと思っていた。どんなことをされるのか想像もつかない。
「どんなこと…されるのかしら…」
「わからないよ…そんなこと…。でも由紀子が…部長となんて…考えられない」「私だって…嫌よ!…」
しばらく二人の間に沈黙が続いた。意を決したように正夫が口を開いた。
「断ろう…この話…オレ…部長の携帯に電話するよ」 正夫は立ちあがり、電話の方に向かおうとした。
「あなた!…待って!私達…結婚したばかりだし…このマンションのローンだって残ってるわ…あなたがここで出世を断ったら…困るわ…」
「で、でも…由紀子…」
正夫は電話の前で立ち止まった。
「そ、それにほら…噂だって…本当かどうか分からないじゃない…」
由紀子は夫を安心させるため精一杯の作り笑顔を見せた。
「ま、まあ…そうだが…」 由紀子は夫を何とか説得し、再び台所に立ち、一人分の料理を追加して夕食の準備を続けた。