ヒカルは成績優秀とはお世辞にも言えないが、授業は普通に受け、不真面目な態度をとるような生徒ではない。
数日前には敬司の授業も真面目に受けていたのだ。
しかしこの日、ヒカルが敬司の授業を聞かなかった理由は昨日起こった出来事が起因している。
嫌なら授業をサボるという選択肢も考えたのだが結局のところそんな勇気も無く、授業に参加したものの敬司の顔をまともに見る事が出来ず、今の状態に陥っていた。
敬司の声を意図的に思考から締め出していた為、授業の内容は頭に全く入らないままいつの間にか時間は過ぎ、時計は授業終了時刻の5分前を指し示す。
切りの良い所で敬司が教科書を閉じ、早めの授業終了を予感した生徒達の期待に教室内の空気は僅かに色めき立った。
その空気に安堵の溜息を吐き、ヒカルが漸く顔を上げると示し合せたかの様に敬司の視線とかち合う。
ドキリと心臓が跳ね、咄嗟に目を逸らせたものの一度波立った鼓動はすぐには落ち着いてくれなくて、目を閉じて深く息を吐き出してやり過ごそうとしたのに、元凶である敬司がそれを許してくれなかった。
「少し早いが今日はここまでにする。あと、相澤―――」
名前を呼ばれた事で周りから見ても判るくらいにビクリと肩を揺らし、ゆっくりと視線を敬司に向けると、誰もが見惚れるような柔らかな表情をした敬司と目が合う。
「後で資料室に来る様に」
周りの女子から「羨ましい」だとか「代わって欲しい」といった言葉が小さく聞こえたが、ヒカルにとってその言葉は死の宣告を下されたようなものだった。
代われるものなら本気で代わって欲しいとさえ思う。
やっぱりサボればよかった。
日直の起立の号令にのろのろと項垂れたまま立ち、力無く礼をし、崩れる様に机へと突っ伏した。
今日の授業は今ので全て終了したからあとは帰るだけ。
この状況で敬司のいる資料室へ赴くのは非常にマズイ気がした。
いや、確実にマズイ。
今日の態度は逆効果だったかと嘆いてみてもヒカルにはああするしか無かったのだ。
あれがヒカルに出来る限界だった。
(逃げて帰ろうかな…)
そんな考えがふと頭を過ぎった瞬間、まるでヒカルの思考を読んだかの様に教室を出る寸前の敬司が振り返り一言。
「相澤、忘れるなよ」
逃げ道は閉ざされた。