呼ばれた資料室の前。
『資料室』と書かれたその下にぶら下がっている名前のプレートを見てヒカルは今日何度目かになる溜息を吐いた。
逃げ出したい気持ちは山々だが逃げたら逃げたで後が怖い。
羨ましがっていたクラスの皆は知らないのだ。
本当の“橘 敬司”という人間を。
意を決して目の前の扉をノックすると、中から「どうぞ」と落ち着いた響きの声が聞こえ、中に足を踏み入れると室内は何処と無く薄暗く、古い本の臭いが立ち込めていた。
この資料室は国語だけでなく色々な科目の文献などが置かれていたが訪れるものは滅多におらず、管理は敬司に任されていた為、ほぼ敬司が私室の様に使っていた。
「失礼します」
形式的な挨拶をすると奥から返答が返ってくる。
「ああ、相澤か。待ってたよ。入っといで」
入ってすぐに置かれた衝立の向こう。簡易な長机とパイプ椅子が幾つか並んだその奥に敬司は座っていた。
椅子の背凭れに身体を預け、長い足をゆったりと組み、微笑を浮かべて此方を見ていた。
…その笑顔が怖いんですけど。
足の上で組まれていた指が離れ、敬司が前にある机を人差し指でトントンと叩いた。
「ここに来い」という意味なのだろう。
…その無言が果てしなく怖いんですけど。
ヒカルは大きく深呼吸して歩を進め、敬司の傍まで歩み寄った。
座っている敬司を自然見下ろす容になり、間近で見る敬司の顔に息を呑んだ。
さっきまでの微笑は消え、鋭い視線に射抜かれる。
美人に睨まれるとハンパない。
無意識にゴクリと喉が鳴ったのを見て取った敬司が僅かに片方の口角を上げた。
「何か期待してるのか?」
嘲笑と共に寄越された言葉にかっと顔が熱くなった。
「な…っ!ちが…」
「今日の態度は何だ?」
言い終わらない内に授業での態度を咎められる。
理由なんて分かっているくせに。原因は自分が作ったくせに。
一方的に此方が悪い様な言い方をされてカチンと頭にきたヒカルは敬司に食って掛かった。
「アンタの所為だろ!」
「俺の所為?」
「アンタが昨日あんな事…っ」
「あんな事ってどんなコト?」
詐欺だ。
ニヤリと人の悪い笑みを浮かべて挑発するような目で見詰めてくる敬司は授業中の敬司とは似ても似付かない。
コレが本当の敬司だという事を皆知らないのだ。
そういうヒカルも昨日までは他者と同じく騙されていた一人だった。