男が助手席を立った後、志乃は電話番号がメモされた紙切れを見つめていた。志乃が買い物をしたレシートの裏に丁寧な字で11桁、並んでいた。
裏返して明細を見る。
何度見直してもテニスボールのタイプ文字が出てこない。涙でかすむ!
目尻から涙が頬を伝った
そして、自嘲の泣き笑いの顔に変わった…。
あれほど青春時代を楽しませてくれたテニス。
色んな、数え切れない思い出をくれたテニス。
ゲームで負けて泣いた事もあったけど…何倍も喜びをくれたテニス。
そのテニスのボール一つが…人生の幕を引く原因になろうとは思いもしなかった!
私はボールを万引きしたことに起因して死ぬのだ
しかし、万引きしようとしてやったのではない!出来心か、と聞かれればそれでも断じてない!
無意識の内に…バックに入れていたのだ。
…テニスの神様も判ってくれるだろう。他の誰が判ってくれなくても…。
しかし、ここまで考えて志乃は又、ハッと心が疼く。…無意識の内に?万引きをした? 立場を入れ換えて相手の立場に立って考えてみる。
これほど質の悪いことがあるだろうか?
その気があって悪意で万引きしたのなら、刑に服して改心する道もあろう
…出来心で万引きしたのなら、病気として治療すれば治るかも知れない。
しかし、無意識の内に万引きをすること程、対処の方法に困ることはないだろう。…自分が今日犯した万引きの心理状態はまさに、「無意識!」。
誰からも受け入れては貰えないだろう。
考え事をして、警報機の鳴っている踏み切りを車で突っ切るようなものだ…何れにしても死んでもおかしくない行為だ。
…いや死ぬのだ!
私が守って来た貞操?…あの男が言った。
一晩だけ自分に欲しい?
これから死ぬ人間に貞操など何の価値もない。
それよりも、何よりも代金だけは支払って死にたい!…死後の世界があるなら、誰かに聞かれたなら「でも、代金はキチンと支払いました」と言えるようにして置きたい。
…卑怯ではあるが。
志乃はケータイを取り出すと、ゆっくりと正確に番号をプッシュして行った。最後にメモの数字を照合し…発信ボタンを押した…。相手が出た!
「もしもし。代金お支払いします。それと、あの…今からでいいですか」
会話の後、電話を閉じて「最後…なのね」志乃は低く呟いて…自嘲した。