父親の「兄はこの家の跡取りとして大学に行け。喬は野球で身を立てろ」と言う絶対的命令に俺は従うこととなる…。
そのためには先ず、甲子園大会に出場することだった。
中3の時、どこの高校に行くか…決定に当たって兄の情報が基準になった
…何処の地区が県予選が楽か、北海道、山陰、鹿児島、沖縄。
私立高校の内、どの高校が可能性大か。
監督の指導力、エースの力……、兄は大学で専攻した情報科学技術を駆使してくれた。
結局、沖縄県の私立高校に決めた。
同時に、ジュニア世界大会で仲良くなった投手(中沢)が東京に居て、彼も誘ってその高校の野球部に入った。
彼がエースで俺が4番バッターで甲子園で優勝する計算だ。
一年生の夏の甲子園へは俺は控えの内野手、中沢が二番手投手で出場した
翌年春の選抜大会には出場出来なかった。
二年生の夏、中沢がエースで俺がショートストップの4番バッターで出場。計画通りになった。
ベスト4に入れず敗退!
…しかし、中沢も俺も二年生ということで全国でも注目を集めた。
監督が厳しい方で秋に死ぬような練習をやらされ翌年の選抜大会に出場。
またもやベスト4に入れなかった…。
そして、4月に三年生になって最後の夏の大会に備えて練習が開始された
その頃(前年)、家庭的に父親が府の消防庁を定年となっていた。
父親は、消防庁と関連のある海上保安庁や税関に、コネクションを使かったらしい。兄は税関職員に採用されていた。
俺が沖縄の高校ということもあり、兄は那覇の税関に着任希望が叶って赴任していた。
そして、運命的だったのが税関は大蔵省の管轄であり、省内、税関内の傾向として、早めの結婚の風潮があり兄も例外ではなかったのである。
兄嫁は某体育大出身で在学中は国営放送で「体操のお姉さん」を勤めていた人だった…。
兄が悪いのだ、と思った
。俺の体づくりという理由で寮を出て兄夫婦と同居することになったのだった。
俺が 18才で義姉が 24才だった。
春の選抜大会で中沢と一緒に俺も名前が売れて夏の甲子園を目指す時期。
多感な年齢でもあった。
練習はきつくても毎日、オナニーをしていた。
義姉に見つかりそうになったのは一度や二度ではなかった?
何か、自由が取り上げられた気がして…寮に戻りたい旨を兄に申し入れた
…もちろん、義姉も密かにオナニーのオカズにしていたのだが…