私が離婚して、この実家に戻って来て5年になる
父が亡くなってから母は不動産屋と相談をして下宿屋を営んでいた。
近くに三校ある大学の学生と、自動車メーカーの従業員を対象にしたペンション方式の下宿であった。
父はこの土地の生まれで先祖からの土地を相続して来た人で、自宅は三階建ての建物で一階がガレージ、倉庫で二階、三階に私達は住んでいた。
私が嫁に行った後、母は殆どの荷物を処分して南向きのひと部屋に住むことにして、他のスペースを間仕切りして個室を作った。…12部屋ある。
朝食付き宿泊で、昼食夕食は基本的に作らない。
6人が向かい合って食事が出来る大きなテーブルに、毎朝、朝食を並べるのが出戻りの私の仕事になったのだった。
年老いた母に代わって朝食を作るのは苦には思わなかった。
むしろ一人実になった寂しさを紛らわすにはちょうどよかった。
…ご飯はお代わり自由。干物の魚、卵焼き、納豆、お味噌汁、海苔、でいいのだ…
ただ、母から引き継ぐ時、…手間が掛かるのは卵焼きだから、これだけは自分で作る。自慢の味でもあるから…と言って母は 10日程、朝私と一緒に起きた。
『いいわよぅ!母さん。卵焼きくらい私、作れるから。朝はゆっくり休んで…』
と私が言っても母は頑として私に卵焼きを焼くのを譲らなかった。
10日程経った頃、
『そう言うなら…明日から卵焼きを焼かせてあげるよ。今日は良く見ておくのよ…』
と母が言った。
…一人に二個…12人にあなたと私…合計 16個…
母は呟きながら大きなボウルに卵を割って入れる
…ダシは昨夜作ってあるから…コネギを刻んで、と…母は私に言い聞かす
確かに手が込んでいた。
…卵は混ぜるのじゃなく、切るの!箸の先で黄身を摘んで切る。…これにダシを加えて、と。…ここでお塩を加える。砂糖じゃないわよ。塩。…もし間違えてお砂糖を入れたら、全部棄てる!……そして三分の一と三分の二に分けて置く。…いい?見てる?』
違うボウルに分けた三分の一に刻んだコネギを全部入れた。
『ネギの入ってない卵で最初、芯を作るの。…三分の二を焼いた次はコネギ入りで覆うの。…あとは不満の出ないように……14等分に切る』
手は込んでいたが母がこうして焼く卵焼きに、もうひとつ大変な秘密が隠されていることを知る由も無かった?